東京は日本橋で鰻を食べた。漢字で「鰻」と書かないと申し訳ないような老舗の鰻屋である。伊勢定という。以前に2回だったか食べたが、自腹では初めてだった。
最初は東洋経済で出版する時、編集者に打ち合わせ方々ゴチになった。前にも書いたと記憶しているが、その編集者の食べるスビートの凄まじいこと。僕も人に負けずに早食いなのだが、負けた。ついでに書くともう1回、その編集者と食べたことがある。こちらも遠慮なく速度を上げたのだが、やはり負けた。
もう1回は僕も半分接待する側だったような。自分の役割を十分理解していたのかどうかはともかく、その中途半端なポジションから鰻への関心が削がれた。
いずれにしても、ゴチになる場合は受け答えを考えながら、喋りながら、時には相手の食べる速度を見て遠慮しながらなので、食事に全神経を集中させているわけでない。しかし自腹なら、何の気兼ねもなく食事に集中できる。だから伊勢定の鰻を初めて堪能したように思えた。
その結果は、確かに伊勢定の鰻は美味かった。ついでに頼んだ突き出しも美味かった。しかし、その鰻には何か物足りものがある。下品さである。
鰻さん、今も昔も高級魚ながら、泥混じりの水に住んでいる。脂も多い。だから決して真からの高級魚ではない。上品であってもいいのだが、どこかスパイスと言うか、悪魚らしさがないと本当の意味で美味くないと思う。
子供の頃の夏、家の小さな庭に七輪を置いて炙り、たれを付けて焼いた鰻の味は忘れられない。上品ではなかったが、鰻らしさがあった。高級になればなるほど鰻らしさが失われていくのかもしれない。
2023/11/17