戦国時代の城址を神社とした唐沢山神社には石垣や建物跡がよく残っているようだ。明治16年、天守跡を中心とする城跡に神社が創建されたため、荒廃から免れたのだろう。
唐沢山神社の本殿が唐沢山の山頂でもある。参拝の後、南へ石段を下る。その後、社務所付近から南に向けて下山する予定だったが、その歩道への入り方が難しかった。
というのも唐沢山神社のメインのルートは車道だから。社務所の少し下に、車道の垣の隙間のように東へと下る道がある。それが登山道である。入るとすぐに明瞭な道となる。高度差も200mないから緩やか、ただし手入れが十分でなく、草や笹の被った箇所がある。
下り切ると露垂根(つゆしね)神社である。唐沢山の本来の神社である。奥の社殿には「竹林の七賢」が彫られ、華やかさを残している。脇には四十九膳神社という、意味不明の神社もある。露垂根神社は城の水場、大炊井戸(おおいのいど)を守る神として厳島から勸請されたそうだから、四十九膳はその水を使った食事の神かもしれない。
神社を見学した後、県道を南に下る。市街地の北端に入り、佐野市の中心部からの大きな車道に出る。その車道を東にとれば、次に目指す三毳(みかも)山の北側に通じる。
三毳山への途中で東北自動車道をくぐるのだが、手前に小山があり、その麓に薬師堂(新町薬師堂)がある。ここまでは地図で確認していたのだが、その薬師堂に「六文銭」の旗印が見えたのには、「何や」だった。この薬師堂はNHKの「真田丸」により、「真田父子 犬伏の別れの地」として人気になったらしい。
真田が関ヶ原の合戦で東西に別れたことは有名である。「その現場がここだと伝えられているのか」と、佐野が重要な地であったと感じた。後で調べると、歩いてきた堂の前の道は日光例幣使街道(朝廷から東照宮へ幣帛を届けた道)だったらしい。日光は関ヶ原の後とはいえ、その前から主要な街道だったようだ。
薬師堂の裏(東)が米山(よねやま)である。三角点があるので、道さえあれば確認しておこうと思っていた。探すと堂の北側にしっかりとした道がある。それをたどるとすぐに山頂だった。三角点(61.8m、点名は米山)の横に祠があり、笹や広葉樹に雑然と囲まれている。米山から下りてすぐに知ったのだが、米山は古墳である。小さな丘を墳墓として使ったのだろう。
高崎から栃木までの間には、関西から見ると何が何だかわからない町が並んでいるものの、一昔前は豊かな土地で、関東の中心だったようだ。三毳山を歩く群馬出身の友人がそう語っているのは、真実である。
上の写真は露垂根神社、下は新町薬師堂である。
2023/11/19