川北英隆のブログ

東芝が残した教訓

東芝の上場廃止が決まった。TBJHによる9月20日を期日とした東芝株式の公開買い付け(TOB)が成立した。それを受け、今月22日、臨時株主総会において全株式を4株に併合することが決定したため、東京証券取引所の規定に基づき、12月20日に上場廃止となる。
このTBJHとは、日本産業パートナーズ(JIP)が東芝へのTOBのためだけに設立した会社である。JIPは独立系のファンド会社ではあるが、短期的な利益を求める主体ではなさそうである。むしろ経済産業省などと関係が深い。
東芝は1875年が創業である。沿革によると、からくり人形の製作者が銀座に起業したのを始まりとしている。その後、白熱電球の会社と合併し、1939年に東京芝浦電気となった。この社名が東芝に変えられたのは1984年である。
敗戦後の1949年5月、東京証券取引所での株式取引が再開した。それと同時に、東京芝浦電気の株式も上場された。もっとも戦前から同社の株式は東京証券取引所で取引されていた。戦前の取引開始がいつからなのかは、手元の資料では確認できなかった。
この名門東芝のつまづきが明らかになったのは、2015年に発覚した不正会計からである。1990年代後半からの日本経済の停滞が影響したのか、また2008年のリーマンショックと福島原発事故による混乱が輪をかけたのか。日本政府を多かれ少なかれ頼りにしていた東芝だったから、日本経済全体の停滞と混乱によって経営に齟齬をきたしたのはたしかである。
2015年の不正会計発覚以降、東芝は上場維持に奔走した。何回も書いたと思うが、上場は企業経営にとって枝葉でしかない。それなのに、上場維持のために将来性のある、根幹というべき事業を売却しつつ、政府を頼った。2017年12月、東芝の事業ではなく東芝の売却価値にしか関心のないファンドから株式形態で資金調達して、債務超過と上場廃止を免れた。
これが混乱する東芝経営の終わりの始まりだった。意味のない株主総会を積み重ね、結局は上場廃止の道を選んだのである。背景には経済産業省の威があったと思える。東芝が原子力発電を代表として、その他の戦略的技術も含め、政府の産業政策の中枢を担っていたからである。政府の片棒をかつぎ、東芝経営に口を挟んだ人物もいた。
とはいえ、政府が真の経営に役に立つのだろうか。むしろ逆だったのが東芝である。政府の支援を否定するものではない。その支援らしきものが、企業経営に大きな反作用をもたらしかねないと思うだけである。
以上は、東芝の経営者の「企業を転落させた悪い子になりたくない」というエリートにありがちなスタンスが根源にある。加えて、何が一番望ましい解なのかを自分で見つけられず、判断できず、外部の指示待ち的な優等生スタイルも影響している。
いずれにしても、伝統ある東芝が、終始忌避していた上場廃止へと結局は追い込まれた。しかも将来性のある部門を失ってしまっている。医療はほぼ完全に手放した。半導体も意思決定の遅れから競争力を失い、しかも海外2社(アメリカのウエスティング・デジタルと韓国のSKハイニックス)と直接、間接に手を結んだため、「船頭多くして」の状態に陥っている。上場廃止を免れるため、あれもこれもと掴んだ藁が絡みついてしまったとも表現できるだろう。
「ほんま、本質を見抜けなかった経営と、それを間接的に支援した関係省庁の失策やな」と思わざるをえない。もっと早い時期に上場を廃止し、一から出直そうと決意していれば、事態はもっと簡明だったはずで、もっと明るい未来が残っていたに違いない。

2023/11/28


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