大日本紡績がニチボーへ改称したのは、最初の東京オリンピックの直前、1964年4月だった。その5年後、ニチボーは日本レイヨンと合併し、ユニチカとなった。敗戦からの復興の原動力だった綿糸とレイヨンが一緒になったわけだが、成功したのか。
合併当時、繊維はピークを越しつつあった。合併による飛躍を期したのだろうが、結果は衰退だった。
郡山のニチボーの工場を思い出すと、国鉄郡山駅にはニチボー用と思える引込線があった。駅前に工場があり、赤レンガで広大な敷地を囲っていた。実を言うと、ニチボーがあったので郡山にメリヤス会社が多数あり(メリヤス、漢字で書くと莫大小って何やと質問されるかも)、そのメリヤス会社向けに包装箱を製造していたのが父親経営の零細企業だった。つまり間接的にだが、ニチボーのお陰で今の僕がある。
いつしか郡山からニチボーの工場が撤退し、赤レンガだけが残った。戦前のレトロな感じがするから、時たま映画の撮影に使われていた。その工場跡を日本住宅公団が最終的に買い取り、塀が撤去された。それ以降、訪ねたことがない。
郡山工場のことを調べると、ユニチカのサイトに資料があった。そのうち消えるかもしれないので(ユニチカに失礼かな)、主要部分を抜書きしておく。
郡山工場での織布は59年6月、紡績は64年4月に休止し、70年9月に跡地大和郡山市に売却したとある。父親が営んでいた零細企業の栄枯盛衰でもある。70年当時から少しの間の郡山は、家電会社の工場進出で財政が豊かだったと聞いている(これもまた産業史になるが、別の機会に)。小学生の頃、工場見学をした当時には、既に織布から撤退していたのかもしれない。紡いだ綿糸を錘に巻き取っていた光景だけは記憶に残っている。
綿糸会社の多くは衰退するか、化学分野などの異業種で生き残っている。綿糸の前、日本が主力としていた生糸分野で何とか生き残っているのは、綾部発祥のグンゼ(旧社名、郡是製絲)くらいだろう。後は不動産業に転じたり、アクティビストの資金源になったりした。
レイヨンというか、合成繊維分野で生き残っているのは東レや帝人、日本が強くなかった羊毛ではニッケ(「見っけ」ではなく、昔の日本毛織)か。
いろいろと思い出しつつ書くのは面倒なので、以下はQUICK社のデータベースで調べたのだが、もはや「繊維業」ではないとする企業も多く、結局は会社四季報で補った。表をアップしておく。繊維業に分類されている場合、冴えない企業が多いことに気づく。
QUICK社のデータは12月22日のもの、会社四季報のデータは2024年新春号である。
2023/12/24