川北英隆のブログ

人材不足と日本の選択肢

能登半島地震の復興のため、大阪万博会場の建設の是非をめぐって議論が生じている。今日の日経新聞には企業の設備投資計画の遅れが報じられていた。これらの背景に共通するのは人手不足である。それも、ネコの手的なのはともかくも、本当の人手が不足している。
日本の人口が減っている。しかも僕も含めた高齢層に人口が偏り、若手が不足する。そんな現状を考えもせず、従来どおりに仕事を続けたのなら、人手が不足するのは必然である。それではと、高齢者を再雇用して凌ごうとすれば、質が落ちていく。
自分自身を振り返ってみても、体力、視力、集中力などが落ち、ミスが多くなっている。老人の域に入れば、程度の差はあれ当然だろう。ということは、従来どおりに仕事を続けたのなら、行き詰まりが訪れる。
このため、仕事のやり方の質を変えよう、生産性を上げようと叫ばれている。賃金を上げるにも、その原資は生産性の向上によって生まれる。生産性で負ければグローバルな競争に負け、地位が低下する。
その一方で忘れられているのが「仕事の範囲」である。「従来からやってきた、だから今後もやろう」では対応できない。日本社会全体としての集中と選択が求められている。
とくに生産性向上のための研究開発対象の絞り込みが求められる。新たな成長分野を含め、研究開発には優秀な人材を投入しなければならない。しかし優秀な人材の数は人口に左右される。
教育によって優秀な人材の割合を増やせるかもしれないが、そのためには優秀な教員の数が問題になる。しかも教育による人材の育成には時間がかかる。加えて、この20、30年間、大学での研究の質が落ちてきている。そう第一線の研究者が語っていたし、僕の印象も同じである。
そうだとすれば、少なくとも当面のところ、生産性の向上を図る領域を絞り込み、そこに優秀な人材を集中的に投入するのが正解となる。それには経営者の力量が問われる。政府としても、切り捨てるべき産業や企業を見極めなければならない。
1/26に「公認会計士不足とデブ化」を書いたが、これも同じ流れにある。公認会計士という優秀な人材を無駄に使うべきではない。つまり「あれも、これも」ではなく、「これだけは絶対に」を決めることになる。
日本は好意的に解釈すれば「優しい社会」である。へそ曲がり的に表現すれば「決められない社会」「断捨離できない社会」「現状維持優先の社会」とも言える。黒船や敗戦という外からの強い圧力があってはじめて、日本は決断できたのだろう。
何も決めず、何も明示的に決断しないうちに、敗戦後にやっと築いた日本の有形無形の資産が老朽化する。グローバルには日本の地位が沈んでいく。それでも、優しい社会の維持を望むのか。
これもまた1つの決断なのだが、誰も表立って決断しなくていい。誰も致命的な犠牲者にならない。だから国民の多くもそれになびいているようだ。

2024/02/02


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