川北英隆のブログ

大学教育は質か量か

大学教員の知り合いと話していると、驚愕の事実を打ち明けられた。「打ち明けられた」との表現はオーバーで、ほぼ周知の事実らしいのだが。
2つある。1つは算数、とくに割り算のできない学生がいるとか。余りが出る場合、「割れません」と答えるのもいるそうだ。「割れません」に、どこまでの意味を込めているのか。問う者としては、割れるかどうかではなく、数字で答えてほしいだけなのだが。
「小学校でもっとちゃんと教えろや」と文句を言いたいところだが、できないものはどうしょうもない。仕方ないので大学で教えるというか、補講をするそうだ。大学の講義の単位になったら文科省に怒られる。
僕の経験では、私立大学で教えている時、説明のために黒板に式を書こうと思い、足し算の記号、?を書いたら、教室がざわついた。高校で教えないのか、文系では数学をまじめに勉強しないのか。とりあえず?の意味を簡単に説明し、そのまま式を書き進めた。この経験はまだかわいい方らしい。
もう1つは、講義に出てこない学生に対して、大学から「出てくるように」と連絡をするそうだ。この連絡は大学によって異なるそうで、事務が連絡する場合と、教員が連絡する場合とがあるとか。大学が幼稚園か小学校並みになっている。
小学校の時、当時は珍しかった不登校の生徒がいた。担任の先生に言われてその生徒の家にまで迎えに行ったことがある。忘れたが、2回くらいあったような。バカバカしかったからか、2回目はその生徒と喧嘩したように思う。
実は、その生徒、絵が美味かった。喧嘩した後、図工の時間にたまたま彼の絵を見て「すごいな」と思った。プロになれる水準かどうかは僕にはわからなかったが、いろんな才能があるものだと知ったのは確かである。
大学とは何か、教育とは何なのか。義務教育はともかく、高校や大学はより深く学ぶためにある。履歴書に書くために入るものではない。
一方、大学の定員数が増え続け、その総数が大学入学者数を上回る時代である。実際にどうなのかは統計が得られなかったものの、24年4月入学では定員数のほうが大きくなると推計されている。文科省が大学教育の量を重視し、定員の削減を強く求めず、その一方で学部の新設を認めてきたからだろう。
しかし、算数のできない大学生、連絡しないと出席しない大学生ばかり増やしてどうするのだろうか。一方の大学としては、卒業させないと「教え方が悪い」と文科省に怒られるから必死である。
でも、これって貴重な人材の無駄遣いである。大学の教員や事務が無駄に近い仕事をするのと同時に、学生側にはもっとやりたいことがあるに違いない。
才能を見出すこと、見つけてやること、それが本当の教育ではないのか。才能を見つけることができたのなら、彼/彼女は楽しく働き、生きることができる。社会にも大きな貢献ができる。
嫌々の大学って意味があるはずもない。「大学を出て割り算をマスターした」ではお互いにアホらしい。

2024/03/25


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