川北英隆のブログ

金剛山と楠木正成

飲み会で話をしていると、金剛山の話題になった。有名な北朝鮮の金剛山ではない。奈良と大阪の境にある金剛山だ。その金剛山には社会人になった翌々年の5月に登った。もはや50年近くも前のことだ。
正確な登山道は忘れてしまったものの、一般的なルート、千早から千早城跡を経て山頂に達し、下りは御所(ごせ)の高天(たかま)に出たと思う。山頂部は草原になっていて、御所側には、田植えをしたばかりの水田がきらきらと輝いていた。
その登山口は、今は学校や両親から教えられることも少なくなったのだろうが、楠木正成で有名な千早赤坂村である。千早赤坂村が大阪府唯一の村として残っているのは、その歴史的な位置づけ故だろうか。
僕も実は、楠木正成をそんなによくは知らない。戦前の教育を受けた父親から楠木正成のことを聞いていただけかもしれない。そんな朧気な記憶の中、金剛山の千早赤坂側の登山口の話に引き込まれた。村の(確か)小学校では年に4回、金剛山に体育の授業の一環として登るのだとか。
しかもその村には城跡がいくつか残っていて、その1つが楠木正成の屋敷跡だとか。当時の城は山城というか、砦として合戦時に使われただけであり、普段、武将は里近くに住んでいた。それが楠木正成の屋敷跡だろう。その城というか屋敷の横には、楠木正成以外の住居もあり、そこには「脇條」という姓が残っているとの話も披露してもらった。脇條とは、本来は脇城であるとか。
ここから先は趣味的な世界になるが、脇條の脇を構成する3つの「力」は、実は「刀」だとも。確かに刀の方が城の横に控えるにはふさわしい。しかしながら昔は刀3つで構成する脇という活字がなかったため、役所の文書の脇は手書きだったとも。
なかなか難しい話を酒の肴にしたものだ。ついでながら、久しぶりに金剛山を歩きたくなった。
そうそう、名前の「成」を「しげ」と読む知人がいるのだが、その由来は多分楠木正成だろうと、迂闊にも10年以上経ってから悟ってしまった。

2024/05/27


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