今回旅行したラダック(Ladakh)はインド、パキスタン、中国(チベット)の谷間に位置している。国境も明確にはない。ラダックは独立を宣言してもいいと思うし、過去は王国だったのだが、今はその力もない。というのも、ヒマラヤとカラコルム末端の山岳地域だから。
国境が定まらないのは、そもそも誰も経済の観点から真面目にラダックを考えてこなかったからである。数メートルどころか数キロなんて誤差の範囲、犬や猿などの過縄張りと同様、いい加減なものだろう。というのも、区切りとすべき地形には山岳が多い。境界がどこであれ、農業や牧畜に大きな影響がなかったため、誰も大して気にしなかった。
しかし世界の風潮が厳格になり、「とりあえず領域を」的な風潮が台頭するにつれ、各国が1メールでも多くの土地を目指すようになった。今まで「適当に」定められていた境界が紛争の種となる。
以上はともかく、今回の旅行で訪れたかぎりでは、ラダックというかインドが実効支配するラダックの主要部分は平和そのものだった。そこに住んでいる主要民族であるチベット人は大人しく、旅行者には何も面倒なことは生じなかった。むしろ親切だった。
どのように周遊したのか、
成田からインドのデリー空港に飛んだ。デリーに1泊し、翌日に鉄路を乗り継ぎ、イギリス植民時代の夏の首都、シムラー(Simla)に泊まった。当時の首都はカルカッタ(コルカタ)にあったのだが、さすがに忍耐強いイギリス人にとっても、コルカタの暑さは耐えられなかったに相違ない。だからインドの軽井沢的な感覚で夏の都、シムラーが選ばれた。
そのシムラーへは山岳鉄道を使った。世界遺産だとか。今はちゃんとした道路もあるのだが、ヒマラヤの入口だから、かつては鉄路が重要だったのだろう。
シムラーからは峠を越え、チベットのカイラス山を源流とするインダス川の一大支流、サトレジ(Sutlej)川流域に入る。中国との国境間近でそのサトレジ川の大きな支流、スピティ(Spiti)川に入る。後は峠越え、ゲストハウスの宿泊、チベット仏教寺院の見学が続く。10日少しか経たない今でさえ、どの寺院がどれだったかの状態だから、なかなか難しい旅行である。今、映像として残っているのは、雪の残った山と深い谷と、その谷の一角にへばりついたチベット仏教の寺院だけである。そう、高山植物もあった。
4000から5000メートルの峠を越え、ラダック最奥地域とされるザンスカール(Zanskar)に入った。6000メートル級の山に囲まれた盆地である。標高は3500mを越える。そこでも同じく、山と谷と寺院の風景が続いていた。
ザンスカールから北へ5000メートルの峠を越え、ラダックの中心地であるレー(Leh)に入った。同行者によると、レーすっかり観光地化したらしい。確かに異国からの観光客が多い。とはいえ、日本的な観光公害はまだ少なく感じた。そのレーからは飛行機でデリーに戻り、帰国した。
もう10年早く訪れていたのなら、もっと山岳地域を感じたかもしれない。その辺境にインド軍を多く見かけたのも現実の一端である。
写真、上はデリー駅の光景、下はシムラーの町である。シムラーはインドとミャンマーとの国境の町、コヒマを彷彿させた。
2024/07/28