川北英隆のブログ

安楽死と無責任

イギリスで安楽死法案が成立に向けて前進したそうだ。本人の明確な意思があると認められることが条件になっているとか。日本でも安楽死の議論が進むことを期待したい。
僕自身は、老化によって頭が不健康になってまで生きていたくないと思う。自分が自分であることを認知できなくなり、かつそれ以前の自分との連続性がなくなった状態では、いくら長生きしても意味がないと思っている。
身体が弱ってしまい、満足に動けなくなれば、それも嫌である。
もちろん、個人によっては違う考え方があってもいい。過去の自分との連続性がなくなっても、生きていることそのものが嬉しい、幸せだとの考え方もあるだろう。部屋にこもったままの生活も楽しいとの考えもありえよう。
だから、少なくとも頭が健康なうちに「安楽死を望むかどうか」を問うておく必要がある。動くのが不自由になった場合は横に置くとして、頭が不健康になった時、もう一度安楽死を望むのかどうか問うべきかどうかは難しい。過去の自分とは違うのだから、違った返答が生じうる。この時、重視すべきなのは過去の返答なのか、今時点の返答なのかである。
93歳手前まで生きた父親は、最後は生きることに関して淡白になっていた。同年代の知人がいなくなったからである。視力が非常に弱くなり、満足に旅行もできなくなった僕の人生の恩人は、もはや長生きしたくないともらしていた。家族や恩を受けた側としては、そんな過去と異なった両親や恩人を直視できなくなる。
日本においても安楽死に関する議論を進めるべきだろう。何も議論しないのは、責任をとりたくないという無責任から生じる。もしくは恵まれた生活を送ってきたから、世間の一般的な姿が見えていないのだろう。
僕としては無理してまで長生きしたくはないのだが、もっと生きていたいとの願望を持つとすれば、科学の発展を見届けたい、その科学が発見する未知の世界を見たいからである。しかし、この願望だけは、永遠の生命を与えてもらわないかぎり、実現しない。10年前後の時間では到底足りないのである。

2024/12/01


トップへ戻る