川北英隆のブログ

高校と大学教育のあり方-2

教育を改革するには新たな資金が必要となる。一律の詰め込み教育は、一種の大量生産である。一方、高校までは好きなことを自由に学ばせ、大学において考えさせる教育とは、教える側に能力が求められ、当然ながら時間つまり人手が必要となる。これらはコストである。
国として教育のコストを回避してはいけない。人を育てることは将来の国力となり、国のちからとなる。国としての長期投資だと考えなければならない。
この点、1/29の日経新聞の1面の記事、「大学教育の質『格付け』」、「文科省、第三者機関で評価」には疑問を感じる。
専門職大学院でも同じような「第三者機関評価」としての「認証評価」が行われているが、評価する側にどこまで能力があるのか疑問である。そもそも現在の認証評価には、「教育の責任はすべて大学側にある」との大前提がある。すなわち、大学がいかに工夫し努力しているのかを問うだけである。
教育は教えられる側と教える側との共同作業である。教える側がいくら頑張ったとしても、教えられる側が頑張らないと成果が得られない。責任のすべてを教える側、すなわち大学側に押し付けようとするのが現在の認証評価制度だと思えてならない。
そもそも「教える」という教育の定義からしておかしい。高校までは「教える」である程度いいのかもしれない。しかし大学ともなると、もちろん「教える、教えられる」こともあるだろうが、「教えられないこと」つまり「真理かどうか、真理が何か不明なこと」がいくつも登場する。そうだから学生側としても「考える」ことが重要となる。
各大学の各学部には定員がある。その定員枠を文科省が定めた率以上に超過すると罰則が課される。枠超過は入学者数を多目にすることと、卒業者が少ないこと言い換えれば落第者が多いことによって生じる。このため大学の運営方針として、成績が少々悪くても卒業させる、卒業させるために講義や試験を易しくすることに傾斜していく。
当然ながら、罰を受けないために卒業させてしまうのは教育でない。一方、そうしないと卒業できない者が大量に発生しかねない。バイトや早い段階から就活がそれである。
就活に関してインターンが悪いとは言わない。とはいえ、インターンと呼ぶに相応しい実社会の体験ができるのかどうかが問われる。現在の日本では「名ばかりインターン」が多すぎるのではないか。
いずれにしても何々大学卒業が教育の最終目的でない。卒業できない、つまり「ドロップアウトを出してもいい」との条件に基づき、また教育とは教育される側の努力も求められるとの当然の役割分担に基づき、日本の教育制度を組み立て直すべきである。議論されている教育の無償化は何々大学卒業という現在の流れを促進させるだけで終わるだろう。そうではなく、もっと根本的なことを考える必要がある。無償化のための資金があるのなら、それは教育の質向上に使うのが筋である。
とはいえ今の政治家も、大学で真面目に勉強し、考える力を身につけたのが少ないのだろう。誰でも入れ、卒業できる教育が再生産されてしまう。国力の向上はどこへ行ったのか。

2025/01/31


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