大学受験や資格試験のための教育では情けない。中国の科挙の時代と何も変わらず、創造性に欠如し、やがては訓詁学に落ちぶれる。人口が減少するなか、教育の質を上げ、グローバルに戦える人材の輩出割合を高めることが要請されている。
先日、スーパーサイエンス・ハイスクールを見学した。高校生が自由研究のテーマを自分自身で考え(もちろん先生と議論するのだが)、そのテーマを論文にまとめ、3年生の時に英語で発表するという。これが授業に組み込まれている。クラブ活動もこの授業の延長線上で選ばれることが多いとか。
自分で考え、調べ、それらをまとめ、プレゼンテーションする。この経験は大学に進んだとき大いに役立つだろう。興味を持ったことに対して自分で努力することは、社会に出た時の基本でもある。
僕自身、大学時代に公認会計士になろうかなと思ったことがあった。その時言われたのが、砂を噛むような勉強だと。会計規則を覚えることの大変さの表現だろうか。幸か不幸か当時の京都大学には公認会計士試験に適切な講義はなかった。このため自然と資格試験の勉強から遠ざかったのだが。
会計規則や法律の条文は、今の世の中、外部記憶装置であるデータベースとインターネットがあればすぐに検索できる。専門家に必要な知識とは、会計や法律の発想と理念、構造と体系、そしてネットの活用方法を熟知しているである。細かな条文はネットが教えてくれる。
ということで、自分の頭と外部記憶装置とを駆使すれば、専門家としての役割を存分に果たせる時代となった。逆に頭の中だけの記憶に頼り、「規則のどこそこから」とか「条文の何条から」とかを並べるだけの専門家は駆逐される。
しかし受験のための教育が大手を振ってきた日本にあって、上で書いたスーパーサイエンス・ハイスクール的な教育は「邪道」だろう。大学受験には直接役立たない。
とはいえ受験のための勉強がグローバルな競争にどれだけ役立つのだろうか。「大学なんて役に立たない」と豪語する前に、「今の高校の受験勉強は何のためにあるのか」と主張するのが本筋である。大学入試を変え、高校入試、中学入試を変えていくことが本筋である。
さらに言えば、資格試験とは何なのか、どうすればネットの時代にあって、社会のために活躍してくれる専門人材を輩出できるのかも考えなければならない。
2025/03/02