川北英隆のブログ

挫折

3/1に登場させた知人の子どもが公立高校の入試に落ちたとか。知人は、「私立に受かった後は遊んでいたので当然」としつつも、「子どもにはショックみたい」とあった。
成長する段階での挫折はどこかである。「致命的やなかったら早い段階がええで」と返事しておいた。ついでに僕自身の挫折の経験を紹介しておいた。
僕の場合は1969年の大学受験である。学生運動に端を発した東大紛争は、69年1月20日(そうらしい)、その年の東大入試の中止発表に至った。当時の国立大学1期校の入試の約1ヶ月前である。
「この水準であれば京大経済学部にほぼ確実に合格できる」程度にしか勉強していなかった僕にとって最大のショックだった。合格の確率が一気に落ちた。かといって残り1ヶ月を全力疾走する気にもならず、「今さら仕方ない」「数学で差をつければ大丈夫」と思っていたのだが、その年の京大文系の数学の問題が高校入試程度にやさしく、差をつけられなかった。しかも生物の計算問題で単純ミスをしたことに、その当日に気づいていた。
おかげで1年間、今となっては有意義な時間を過ごせた。
理学部に変更しようかなと思いもしたが、1年間、受験勉強してこなかった科目を必死に勉強する気にもならなかった。
そこで予備校には行かず、家で英語を中心に学力維持程度の勉強をした。その傍ら、父親が買っていた古典文学を読んだ。体力維持のために、工場の古いコンクリート基礎の解体作業も手伝った。
その年、山には行かなかった。さすがに山行の資金を親にねだるわけにいかなかったのだろう。そこまでの心の余裕はなく、プチ気晴らしの連続だったようだ。高校時代の友達が遊びに来てくれたのも気晴らしになり、嬉しかった。
あれやこれや、それまでとは違った角度から自分を見つめ直す1年間になったと思う。
翌70年の入試は、国立大学の試験さえ普通に実施されれば大丈夫と思っていたものの、さらにもう1年間ぶらぶら過ごすリスクを完全排除するため、早稲田大学を滑り止めに受けた。入試料と東京への旅費を無駄にした(幸い国立大学の合格者発表日のタイミングの関係から早稲田の入学手続きを免れた)。東京は初めてだったので楽しかったが。
そうそう京大の入試がなかった場合に備えて東大と一橋に、また滑り止めとして国立二期校へも願書を出した。これも余計な費用だった。
最初に戻り、知人の子どもには、「何が幸いになるのかはわからない」「第一志望ではなかったにしろ、進学校の私立高校に入るのだから、ちゃんとした大学に入れるように3年間を過ごせばいい」と間接的に伝えておいた。

2025/03/08


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