川北英隆のブログ

いつ全力疾走したか

全力疾走できない性格になってしまい、さらに年齢とともに、たとえ全力疾走したところでピクニックラン程度になった僕にも、実は「全力疾走したな」という期間がある。いつなのか、思い出すままに書き留めておく。
小学校2年生だったようだが、九九の暗記が最初の記憶である。風呂に入っても九九を唱える光景が頭の片隅に残る。
小学校3年生の時、学芸会で台詞の多い役に選ばれた。何とか覚えたものの、おかげで暗記が嫌いになり、しかも暗記能力に乏しいと気づいた。全力で暗記すると頭が唸りそうに感じてしまい、単純暗記に全力を注ぐ気力を失った。
小学校6年生の時、中学受験をするようにと担任の吉岡先生に言われ、参考書をもらった。夏頃から本気で勉強したと思う。全力疾走ではなかったが、90%程度では走っただろうか。おかげで受験した中学(奈良女付属)には入ったものの、勉強がますます嫌いになった。中学から高校への進学は、中学校の150人中110人が合格する試験だったため、勉強らしい勉強をしなかった。大学は先に書いたとおりである。
大学を卒業する年の2月、就職したとしても3年程度で辞めるだろうなと思い、それまで考えていたことを400字詰め原稿用紙で500枚程度にまとめた。まとまった文書を書く練習でもあった。1ヶ月弱で書いたから、そのときばかりは全力疾走だった。
通産省に派遣されていた1977年、当時の宮田課長が勉強会を開催していて、その成果を出版物にするというので、下書き的な物を書かされた。それを発表すると、勉強会に出席していた経済学者にダメ出しされた。それを単純に書き直したのか、別のものにしたのかは忘れたが、代替物を書くのに全力疾走した。曖昧な知識で物を書いてはいけないとの教訓にもなった。出版物とは『日本の未来像 10年後のシナリオ』(東洋経済新報社、1979年)である。
同じ通産省の時代、定年間際の職員の世話係として、イギリスとフランスの統計制度の視察に出かけた。訪問先には通訳が付いていたとはいえ、報告書を書くのにやはり90%くらいで走ったと思う。とくに、もらってきたフランス語の資料から報告書に書く内容を拾い集めるのに力を使った。第三学国語としてフランス語を学んだのが少しだが役立った。
そんな程度だろうか。もちろん瞬間的に全力を出すこともあるが、一定期間を全力もしくはそれ近くで走った記憶は、とりえず以上のとおりである。

2025/03/08


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