知人と男女差別の話題で盛り上がっている。知人が担当する講義への期末アンケートに、学生から「ジェンダー発言で不愉快になった」との記述があったそうだ。
「女性は計算の苦手なのが多いけど、Excelを習えば得意になる」と言っただけなのにと、ぼやいていた。
このケースの計算が具体的に何なのかは不明ながら、僕が接する学生についても、女性の方が計算能力に劣ると感じてきた。それが先天的なものなのか、教育環境によるものなのか(計算能力を問われない分野にかかわってきたためか)は不明である。
計算能力から離れると、人間も生物であり、性差があるのは必然である。それなのに「すべての面において差別しない」ため、「男も女も一緒」と語るのは極論過ぎる。
そもそも言葉とは、差別とは言わないまでも、区別するための道具である。とくに漢字は象形文字であり、「男」は田を耕す姿、「女」はひざまずく姿である。つまり、「男」は力仕事をし、「女」は家で座って仕事や用事をすることを表現している。
男女平等を極論化していくと、男と女を表す漢字を作り直さないといけないし、ひょっとすれば男と女という言葉を抹消しなければならない。とすれば矛盾に陥る。
日常生活で矛盾に直面しそうなのは公共の場でのトイレである。ネットで調べると、男を青、女を赤で描くのは差別だとか。一方で、男はズボン、女はスカートと決めつけるのも差別とある。スコットランドのキルト、ミャンマーのロンジーは男も身につける。
海外でトイレを借りるとき、色で区別していた例を思い出せない。スカートかズボンかで区別している。しかしこれが分かりづらい。大きく広がったスカートならいいのだが。だから、つい間違いそうになる。加えて、スコットランドやミャンマーはどうしているのか。最近、両国・地域に行かないから記憶がまったくない。
このトイレ問題、区別と言うべきか、差別と言うべきか。これにいろんな「性」が加わると問題が複雑化する。結局のところ、ユニセックストイレ、つまり昔風の性別に関係ないトイレへと戻る流れもあるそうだ。それでOKなのかどうか。「本末転倒やん」との意見も当然あるだろう。
それはともかく、もう1つ日本で不思議なのは、夫婦別姓の議論が進まないことと、女性の天皇が認められないことである。
前者に関して、僕は別姓でいいと思う。とくに仕事などでの男女差別を基本的に認めないのであれば、そのベースとして夫婦別姓にすべきだろう。後者に関しては、天皇には人権がないというか、人間を超越しているため、男女平等の圏外にあるということなのか。
とはいえ、この2つの問題を男女差別の問題と切り離して議論する日本とは、やはり部分最適しか考えない、言い換えれば全体を見ることのできない社会だと思う。「そういう人種が日本人だ」と言ってしまうと、「差別だ」と張り倒されるだろうか。
2025/03/09